ネタバレ感想の部屋
ハッピー・フィート
鳥から聞かされた、エイリアンのアブダクション体験。何故か氷の山の中にあったショベルカー。エサとなる魚が激減している現象。
これらから、「背景に、人間による環境破壊のテーマが隠されているのかな」と思っていたんですが、まさか、主人公までもがエイリアン、じゃなくて人間に拉致されて動物園に入れられる展開になるとは思ってもみませんでしたねぇ。まあ、南極から拉致されたわけではありませんでしたが。
ペンギンの世界は主に“リアルなCG”で描かれていたと思うんですが、人間世界は、多分、全部実写なんですよね。おかげで、ストーリーに真実味と現実味が伴っていましたねぇ。実は、『スポンジ・ボブ』も人間世界は実写で描かれていたんですが、あちらはギャグとしてその手法を用いているという感覚でしたし。
そして、マンブルが動物園に入れられて、次第にものを考えられなくなる腑抜けになっていく辺りは「これからどうなるんだ!?」と思ってドキドキしましたよ。だって、可愛らしいペンギンが出て来るアニメ映画で、まさか主役のペンギンが廃人にになって終わるわけがないですし、かといって、こんな状況になった以上、ハッピーエンドで終わるとは到底思えない状況ですからね。
それを、驚きの力技でもってハッピーエンドまで運んでいく様は、まさに圧巻でしたよ。あの、マンブルが生まれながらに持っていた特技、“タップダンス”がここで活きてくるんですね。
“歌”みたいに、ペンギン以外の種族には伝わらない特技ではなく、その独特の動きによって、言葉が通じない相手にも伝わる芸当である為に、人間の気を惹く事が出来たわけですよ。
でも、普通なら、「レッサーパンダが立った!」みたいな感じで、動物園の名物になって終わる所を、誰か偉い人がいたんでしょうね。「きっと、踊るペンギンの仲間がもっといるに違いない」と思って、発信機を付けて南極に帰してくれるんですよ。いやぁ、マンブルも日本に流れ着かなくて良かった。
でも、発信機を付けられて群れに帰って来たシーンを見た時は、「この後、人間が大挙押し寄せてきて、“踊るペンギンの大乱獲”が始まってしまうのかな」と思いましたよ。だって、現実的に考えたら絶対そうなりますよね。人間にとって、明らかに“金のなる木”みたいなものですから。ですが、何しろ子供向けのアニメ映画の体裁をとってる映画です。そこまでリアルにする必要はないわけですよ。「人間にもまだ自然と共存する良心がある」という希望を見せてくれるラストになるんですよね。これは感動しましたねぇ。「非現実的な展開」と言うより、「正解」を見せてもらえたような気がしたものでした。
で、このラスト、マンブルが「救世主」となったというわけなんですよね。マンブルは他のペンギンと違う、自分だけの特技と個性を持っていたわけですが、それが、自分の幸せを掴むという方向ではなく、世界を(ペンギンの世界を)救うという方向に使われる事になるとは、スケールがデカいです。それも、意中の相手と一緒になる夢を捨ててるんですからね。凄いヤツだぜ、マンブル。で、そういうキャラの声を当てているのがイライジャ・ウッドというのが、何かハマり過ぎなぐらいハマってましたね。もはやマンブル様状態。今回はお供が庭師ではないのが悔やまれます(しかも最後までお供しないですし・笑)。
戻る
<注>このまま下に行くと『デジャヴ』のネタバレ感想が出てきます。
<注>上に『ハッピー・フィート』のネタバレ感想があります。
デジャヴ
それにしても、まさかあの衛星監視システムが、実はタイムマシンだったというのには驚きましたね。「偶然タイムトンネルを見つけてしまった」という、『タイムライン』みたいな感じで出来たタイムマシンなんですね。
これにより、ストーリーが「タイムトラベル物」みたいな展開になっていくんですが、終盤の、ヒロインを救う為に過去に旅立つデンゼルの姿は、『ターミネーター』の、サラを救いに過去に現れたカイルの姿を彷彿とさせましたね。
テロ犯人の役を、ジム・カビーゼルが演じてるんですが、これがまた、実にいい悪役演技でした。もう、狂った愛国者にしか見えませんでしたからね。『ターミネーター』のシュワを思わせるワルっぷりですよ。しかも、防弾チョッキのせいで撃たれてもピンピンしてましたからね。まさにターミネーター並の防御力。
二挺マシンガンによる攻撃力の高さもかなりのものでしたが、それを「脳天一発」で片付けるデンゼルが素敵でした。別の映画の感想で否定した“脳天一発”ですが、悪を退治する際に使われる分には大いに結構ですよ。
さて。こういうタイムトラベル物のストーリーでは、見終わった後に色々と疑問点が出て来るものです。この映画でも、「なぜ歴史が変わったのか」とか「過去に戻ったデンゼルは一人だけだったのか」とか、考えたくなる点が数多く出てきました。
まず謎なのは、「デンゼルの同僚の死んだ場所」ですよ。本来はフェリーの事故に巻き込まれて死んだ事になっていたはずなんですが、メモを過去に送った事で、カビーゼルに撃ち殺されるという風に変化してしまったんですよね。では、もしメモを送らなかったら、あの同僚はどうなっていたんでしょう。そのままフェリーの爆破で死ぬ事になったんでしょうか。でも、確か、女の被害者(ヒロインの人。名前忘れた)の家の冷蔵庫のマグネットはこの時点で確か動かされていたんですよね。デンゼルの指紋も大量に検出されていたようで、過去にデンゼルがあの家にいった証拠が、メモを送る前の段階から揃っていたようなんです。
では、なぜメモを送る送らないで、同僚の死に場所に変化が起こるのか、というのが分からないんですよね。
カビーゼルのアジトがデンゼルの特攻で壊される事となりますが、フェリー爆破を成功させた現在のカビーゼルは、やはりアジトを爆破されてからフェリー爆破に向かったんでしょうかね。すると、サラはどこで殺されたのかがよく分からなくなってきます。ちなみに、ヒロインの名前忘れたんで、これからサラと呼びます(そんな勝手な・笑)。
これらのこんがらがった事態を、矛盾無く説明する事は可能なのだろうか。と、無い知恵を絞って考えてみましたが、考えれば考えるほど混乱する始末。
とりあえず、普通にストーリーを追って見た場合、「フェリー爆破とサラの死は避けられない運命」というように見える展開だったんですよね。私も見ながらそんな事を思っていたような記憶があります。で、その「変えられない、避けられない運命」というやつを、デンゼルや同僚、サラ達のちょっとした行動や反応によって変える事が出来た、「運命は自分で切り開けるのだ!」というテーマのストーリー、と解釈する事は出来ないだろうかと。
ちなみに、現在において、デンゼルが逮捕したカビーゼルを尋問している際、カビーゼルが、まるで次のテロがあるかのような、意味深な発言をしていたのが気になってたんですよね。劇中でデンゼルは気にもとめてなかったんですけど、もしかしたら、すでに次のテロの準備は済んでいたんじゃないのか、そしてそれは、フェリー爆破よりももっと規模のデカいものなんじゃないのか、と思ったんですよ。
と言う訳で、それを阻止出来たという意味においても、正義のデンゼルが悪に打ち勝ったという、勧善懲悪的な爽快感のあるラストだったように、私は思えました。これでめでたしめでたし、という事で終わらせておく事にしますか。とりあえず。
戻る
<注>このまま下に行くと『ディパーテッド』のネタバレ感想が出てきます。
<注>上に『デジャヴ』のネタバレ感想があります。
ディパーテッド
ラストの展開が気に入らないと書きましたが、もう少し具体的に書いてみます。
終盤の、ディカプリオが死んだ辺りから「脳天一発死」が大量に発生し出すじゃないですか。まず、個人的にこの映像、と言うか殺し方にムッとくるものがあったんですよね。
映画の中で“殺人”というのは幾度となく出て来るものですが、この映画のラストで出て来る殺しには、何と言うか、美学が感じられないです。相手が油断してる隙に脳天一発で決めるなんて、野蛮極まりない。
私が望むのはこういうのではなく、例えば、ナタで頭をかち割ったりだとか、チェーンソーで腹を切ったりだとか、そういうグロくてスプラッターなものなんです。そういう死に様なら、死体オチでも大歓迎なんですけどね。って、何を言ってるんだ(笑)。
私が本当に言いたいのはこんな事ではなく、今まで主人公として人間的な部分がしっかりと描かれてきたキャラクターを、不意の一発で殺すのはどうなんだと思うんですよ。
確かに、ショッキングなシーンでしたし、ああいう世界を生きてる人の死に様なんてのは大概は、こんなふうなあっけないものなんでしょう。でも、2時間近くかけて語られてきたドラマがこの一瞬で意味をなさなくなってしまうんですよ。今まで生き残る為に必死で頑張ってきたのが、全て無駄に終わるというのに、ほんの一瞬で片付けてしまうなんて、あんまりじゃないのかと。生き残る為に必死で頭を働かせてきた人達が、脳みそぶちまけて終わるなんて、あんまりじゃないのかと。
この強制終了みたいな命の終わらせ方は、私には無責任に思えてしまいますね。ビリー・コスティガンという男の人生の一部をここまで描いてきたんだから、最後まで責任持てと言いたい。架空の人物とはいえ、命に幕を下ろさせるのなら、それなりの終わらせ方を用意してやるべきだと思います。あまりにも人の命を軽視し過ぎです。
しかも、この後、もう一人の主役も同じような死に方をして終わるんですよね。主人公二人が死んで終わるなんて、悲劇的結末やバッドエンドというより、むしろゲームオーバーに近いものがあるように思えます。一瞬「操作ミスしたか!?」とか思ってしまいましたよ。
で、多分、主役二人が最後にあっさり死ぬような展開から、何か読み取らなきゃいけない事があるんでしょう。私には分かりませんでしたが、この「ニコルソンの独白から始まり、マット・デイモンが死んで終わる」というストーリーを俯瞰で見たら、何か一つのテーマが見えてくるのかもしれません。
ですが、そのテーマは主人公を殺さなければ本当に観客に伝えられない事だったのかと。“主人公”というのは、観客の分身でもあるわけなんですよ。映画を見てる人は、主人公の目線で一緒に物語を追っていくわけですからね。と言う事はですよ、言ってみれば、この映画の製作陣は観客に向けて銃を撃ったわけですよ。それも脳天に。しかも2回も。それで「どうだ、衝撃的な映画だろう」と言われても、こちらは「ふざけるな」としか言えませんね。
多分、こんな事を思ってしまうのは、ここに至るまでのドラマが良かったからなんでしょうね。熱中して見入ってたのに、単なる死体オチで強制的に終わらせられたように思えて、どうも腹が立ってしまったようです。
戻る